日本の歴史

坂本龍馬とグラバー商会|英雄神話の裏に隠れた「もう一つの龍馬像」

坂本龍馬とグラバー商会|英雄神話の裏に隠れた「もう一つの龍馬像」

坂本龍馬は、明治維新の立役者として日本人に最も愛される歴史上の人物の一人である。薩長同盟の仲介、海援隊の結成、船中八策による新国家構想——その活躍は幕末史を彩る輝かしいエピソードとして語り継がれている。しかし、龍馬の行動の背景には、教科書ではあまり語られない「もう一つの文脈」があったという見方もある。


脱藩浪士がなぜ大物を動かせたのか

坂本龍馬は1862年に土佐藩を脱藩した。当時、脱藩は死罪に相当する重罪であり、龍馬は正式には「罪人」の身分だったとも言われている。

それにもかかわらず、龍馬は西郷隆盛(薩摩藩)や木戸孝允(長州藩)という当代一流の政治家・武将と対等に交渉し、薩長同盟(1866年)を成立させた。なぜ一介の脱藩浪士がこれほどの影響力を持てたのか——この疑問に対して、「背後にトーマス・グラバーとの関係があったからではないか」という見方がある。


トーマス・グラバーとは何者か

トーマス・ブレーク・グラバー(1838〜1911年)は、スコットランド出身のイギリス商人で、1859年に長崎に来日した。長崎の地に「グラバー商会」を設立し、幕末期の日本において最大規模の武器・船舶の輸入業者となったとも言われている。

グラバーが薩摩・長州両藩に販売した武器は、幕末の政治・軍事バランスを大きく変えたとも言われている。特に長州藩へのミニエー銃の大量供給は、長州藩が幕府軍を破る上で決定的な役割を果たしたという見方もある。


龍馬とグラバーの関係

坂本龍馬とグラバーの関係については、いくつかの興味深い点が指摘されているとも言われている。

龍馬が設立した「亀山社中」(後の海援隊)は、薩摩藩名義でグラバー商会から武器・船舶を購入する役割を担っていたとも言われている。つまり、龍馬はグラバーと薩長をつなぐ「仲介役」としても機能していたという側面があったとも見られている。

グラバーの立場から見れば、龍馬は重要なビジネスパートナーであり、薩長への武器販売を促進する上で有益な存在だったとも言えよう。龍馬の「仲介者」としての立場は、単なる「日本のために動いた愛国者」という側面だけでなく、当時の国際商業の文脈の中にも位置づけられるとも言えるのではないだろうか。


龍馬暗殺の謎

1867年11月15日、坂本龍馬は京都・近江屋において暗殺された。享年33歳。この暗殺の黒幕については、現在でも諸説が存在しており、確定的な結論は出ていないとも言われている。

  • 京都見廻組犯行説:幕府の治安組織による犯行という説(現在最も有力とされる)
  • 薩摩藩黒幕説:龍馬が自らの役割を終えた後、「処理」されたという説
  • 土佐藩関与説:土佐藩内の反龍馬勢力が関与したという説

暗殺の黒幕が誰であれ、龍馬が暗殺された時期は、大政奉還(1867年10月)の直後という絶妙なタイミングだったことは事実である。「歴史的使命を果たした直後に消された」という事実が、龍馬の物語に一層の悲劇的な光を与えているとも言えよう。


「英雄・龍馬」像はいつ作られたか

興味深いことに、坂本龍馬が現在のような「国民的英雄」として広く知られるようになったのは、比較的最近のことだという見方もある。明治時代には龍馬の名はさほど広く知られておらず、司馬遼太郎の小説『竜馬がゆく』(1962〜66年)が龍馬ブームの大きなきっかけになったとも言われている。

つまり、私たちが「知っている」坂本龍馬のイメージの多くは、歴史的事実というよりも、20世紀以降に作られた「物語」としての龍馬像を色濃く反映しているとも言えよう。


まとめ

坂本龍馬は、グラバー商会との関係という国際商業的文脈の中でも活動していた人物だという見方もある。「純粋な愛国者」という一面的なイメージだけでなく、幕末という時代の複雑な政治・経済・外交の文脈の中に龍馬を位置づけて見ることで、その実像はより立体的なものになるとも言えよう。

歴史上の英雄を「神話」から解放し、時代の文脈の中で理解しようとすること——それは英雄を貶めることではなく、むしろその人物が生きた時代の豊かさと複雑さを正面から受け止めようとする歴史への誠実な向き合い方ではないだろうか。

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けー君
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