日本の歴史

明治維新の真実|「薩長クーデター」から始まった近代日本

明治維新の真実|「薩長クーデター」から始まった近代日本

明治維新(1868年)は、日本の歴史における最大の転換点の一つとして語られることが多い。「封建的な江戸幕府が倒れ、近代国家・日本が誕生した」という物語は、多くの日本人に共有されているとも言えよう。しかし、その「維新」の実態をより細かく見ていくと、教科書的な「革命」というイメージとは異なる側面が見えてくるという見方もある。


王政復古の大号令の夜に何が起きたか

1868年1月3日(慶応3年12月9日)、「王政復古の大号令」が発せられた。天皇を中心とする新政府の樹立を宣言するこの号令は、日本の近代史における決定的な転換点とされている。

しかし、この号令が発せられた夜の実態を見ると、いくつかの重要な事実が浮かび上がるとも言われている。

  • 御所(京都御所)の門を固めたのは、薩摩藩・長州藩・土佐藩など、特定の藩の兵士たちだった
  • 徳川慶喜(15代将軍)はこの会議に呼ばれていなかった
  • 全国の藩の大多数は、この決定に関与していなかった

つまり、「王政復古」は全日本の合意によるものではなく、薩長を中心とした一部勢力による既成事実化だったという見方もある。こうした経緯から、明治維新を「薩長によるクーデター」と表現する歴史家も存在するとも言われている。


「敗者の歴史」が消された維新

明治維新の物語が「輝かしい革命」として語られる一方で、その陰には「敗者の歴史」があったという視点も重要ではないかと思われる。

会津藩の悲劇

幕府側として戦った会津藩(現在の福島県)は、戊辰戦争(1868〜69年)において激しい戦いの末に降伏した。会津藩士やその家族が受けた処遇は過酷なものだったとも伝えられており、戦死者の遺体が長期間埋葬を許されなかったという記録も残っているとも言われている。

東北諸藩の「奥羽越列藩同盟」

東北・越後の諸藩が結成した「奥羽越列藩同盟」は、薩長主導の新政府に対抗したが、最終的に敗北した。これらの藩の視点から見れば、「明治維新」は中央集権化による地方の自律性の喪失であり、必ずしも「解放」や「近代化」ではなかったという見方もある。

勝者(薩長)が書いた歴史が「正史」となる中で、敗者側の経験や視点がどれだけ伝えられてきたかは、問い直す必要があるかもしれない。


維新を支えた「外国の影」

明治維新の背景には、当時の列強・特にイギリスの関与があったという見方もある。

薩摩・長州両藩は、幕末期にイギリス商人や外交官との深い関係を持っていたとも言われている。長州藩はイギリス商人トーマス・グラバーから最新式の武器を購入し、薩摩藩もイギリスとの関係を深めていった。幕府側がフランスと提携関係にあったのに対し、倒幕勢力がイギリスと近い関係にあったことは、維新をめぐる国際的な文脈を考える上で重要な要素だという見方もある。


明治維新は「革命」だったのか

明治維新を「革命」と呼ぶことが適切かどうかについては、歴史学者の間でも議論がある。

フランス革命やロシア革命のように、社会の根底からの変革があったかという観点から見ると、明治維新は必ずしも「下からの革命」ではなかったとも言えよう。むしろ、既存の支配層(武士階層)の一部が権力を握り直し、上から近代化を推進したという性格が強かったという見方もある。

一方で、封建的な身分制度の廃止、四民平等の理念の導入、近代的な法制度の整備など、社会構造を大きく変えた側面もあったことは否定できない。

「維新=輝かしい革命」という単純な図式ではなく、その複雑な実態を複数の視点から理解しようとすることが、日本近代史を深く学ぶ第一歩ではないだろうか。


まとめ

明治維新は、薩長を中心とした一部勢力によるクーデター的側面を持ちながらも、日本の近代化を推進した歴史的大事件であった。敗者(会津・東北諸藩)の視点、外国勢力の関与、「革命」という呼称の妥当性——これらの問いを重ねることで、明治維新はより立体的な歴史的事件として理解できるのではないかという見方もある。

歴史は常に複数の視点から語り直される可能性を秘めている。「教科書の維新」を出発点としながらも、そこからさらに一歩踏み込んで問い続けることが、歴史を生きた学問として楽しむ道ではないだろうか。

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けー君
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